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2(4) 行方不明

2008/12/11 17:03

 

 

 トゥール・スレン虐殺博物館は、ポル・ポト政権の崩壊から30年の今も、無数の「死」に満ちていた。中でも、収容者の顔写真を展示したその部屋は重苦しい空気が沈殿していた。「反革命分子」として収容され、尋問を受け、処刑された犠牲者の顔、顔、顔、顔。

 

 ふと目を上げると、後藤神父もまた、一枚の顔写真にじっと見入っていた。赤ん坊を抱いた女性を真横から写したものだった。

 

 椅子に座った女性の後頭部に、弓矢のように細い鉄の棒が押し当てられている。撮影の際、椅子に腰かけ、棒の先に後頭部をつけるとカメラのピントが合う仕組みという。

 

 後藤神父は、しかし、赤ん坊を抱いた女性の目元にうっすらと浮かぶ、ひと粒の涙を凝視していたのだった。何気なく見ているだけでは気がつかないほどの、かすかな涙。

 

 「トクミツさん、ぼく、ここへ来るといっつも思うの。涙。ポル・ポトは泣くことを許さなかった。でも、彼女は泣いた。自分の赤ん坊と一緒に殺されるから。ね、この非人間的な…」

 

 現地視察ツアーの定番コースとして、神父は虐殺博物館へ何度も足を運んでいた。そして、訪れるたびにポル・ポト時代への怒りや哀しみを噛みしめていた。

 

 それは案内役のラーも同じだった。ラーはさっきから、展示された何千枚という犠牲者の顔写真を一枚一枚、丁寧に眺めていた。

 

 ラーは、自分の父親と母親の写真を探しているのだった。ラーの両親は、ポル・ポト派が政権を握った1975年4月以来、30年以上も行方不明のままだった。

 

 「ここへは毎年きます。もう十何回目かな。2年に1回、展示写真が替わります。くるたびに、ぼくいつも見てますよ。オトーサン(後藤神父のこと)がこなくても、ヒマな時にきます。いつ見つけるか」

 

 「ここへ来るとどういう気持ちになりますか」。僕はあえて、ラーに尋ねた。

 

 「苦しい」。ラーは表情をゆがめた。

 

 しばらく互いに黙ったままだった。やがてラーは一群の写真を指さし、説明文を読んで言った。

 

 「これらの写真は1年前に替えられたばかりです。この人たちは1978年にここへ収容されました。手を見てください。縛られている。女の子も。この人たちは名前からたぶん、ベトナム人だと思います」

 

 少女の顔写真をじっと見つめていたラーが、こちらに向き直って言った。

 

 「ぼく、ここで写真を見るとき、緊張する。今はあまり見たくないね。見ないほうがいいの。分かっちゃうから…。行方不明というと楽でしょ。もし写真が見つかったら、ショックでしょ。行方不明ってことは、生きているかも知れないから」

 

 ラーは、ポル・ポト派に両親を奪われたという。だが、彼はポル・ポト派の少年兵だったともいう。

 

 どういうことなのか。

 

(つづく)

ひと粒の涙を流す女性の「遺影」=06年1月、プノンペンのトゥール・スレン虐殺博物館

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2(3) 無言の「遺影」

2008/12/10 16:16

 

 

 トゥール・スレン虐殺博物館のパンフレットによる収容所の紹介を続ける。

 

 収容者は入所の際、上半身の写真を撮影された。そして、子供のころから逮捕される日までの詳細な自分史が記録された。さらに下着姿にさせられ、あらゆる持ち物を没収された。

 

 《大きな雑居房に収容された人々は、足を鉄の棒に繋がれた。棒は2種類あり、短い棒は長さ80センチから1メートルで4人が繋がれた。長い棒は6メートルで20人から30人が繋がれた。収容者は鉄の棒に交互に固定されていたため、頭をそれぞれ反対方向へ向けて眠らなければならなかった》

 

 房では直接、床に眠らされ、マットも蚊帳も毛布も与えられなかった。毎朝4時半に、全収容者はパンツを足首まで下げるよう言われ、係員の検査を受けた。その後、手足を上下に振る運動を30分間行うよう言われた。収容者たちの足が鉄の棒に繋がれていても、構わず行われたという。

 

 《収容者が排便する際は、房に備えられた小さな鉄製バケツにしなければならず、小便には小型のプラスチック製のバケツが用意されていた。用を足す際には事前に監視員の許可を求めなければならず、さもなければ叩かれたり、罰として20回から60回、むちで打たれた》

 

 どの房にも小さな黒板に尋問係による次のような保安規則が掲示されていた。


1.質問された通り答えよ。話をそらすな。
2.あれこれと口実を作って事実を隠すな。尋問係を試すことは固く禁じる。
3.革命を頓挫させようとする輩のような愚か者になるな。
4.質問には即座に答えよ。熟考して時間を無駄にするな。
5.自身の不道徳や革命論など語るな。
6.むち打ちや電気ショックを受けている間はひと言も叫ぶな。
7.何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令されたら、抗わずすぐにやれ。
8.反逆者という自身の素性を隠すためにベトナム系移民を口実にするな。
9.上記の規則が守れないなら、何度でも電流の流れたむち打ちを与える。
10.上記の規則のどんな点でも服従しないなら、10回のむち打ちか5回の電気ショックを与える。


 現在、博物館として公開されている収容所跡の一室では、入所の際に撮影された犠牲者たちの写真が多数、展示されていた。

 

 一人の美しい女性の写真を見ていたら、背後で声がした。

 

 「この女性は、ポル・ポト時代の高官の妻です」

 

 振り返ると、ピンク色の開襟シャツ姿の男性だった。緑色の布製アタッシュケースを提げている。男性の名はセム・タリン、42歳。プノンペンにある国立家畜衛生生産調査センターに勤務する獣医という。

 

 「私の父もポル・ポト派に殺されました。この収容所ではなく、地方でのことでしたが」

 

 父親の職業を尋ねると、政府の会計士をしていたという。無数の「遺影」について、感想を求めた。彼は「テリブル(ひどい)」とだけつぶやいた。

 

 「ポル・ポト時代のことは、忘れられないし、忘れてはなりません。だから、虐殺を裁く特別法廷は歓迎します。誰に責任があるのか、はっきりさせなければなりません」

 

 タリンは、これまで何度もこの地を訪れているという。これら虐殺された同胞たちの顔を胸に刻み込むためだった。

 

 「父が殺された時、私はまだ少年でした。そう、ちょうど彼女たちくらいの年です」

 

 タリンはそう言って、制服の紺色スカートを翻して歩く、白いブラウス姿の女子中学生2人を指さした。

 

 1万4000人以上が処刑された元高校の収容所跡で今、外国人観光客に混じって地元の女子中高生たちが見学に訪れている。鎖のついたベッドや、無言で訴えかけてくる膨大な数の顔写真を、彼女たちはどんな思いで見つめているのだろう。

 

(つづく)

 

無言の「遺影」=06年1月、プノンペンのトゥール・スレン虐殺博物館

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2(2) 収容所になった学校

2008/12/09 13:15

 

 

 トゥール・スレン虐殺博物館のパンフレットによれば、「トゥール」はクメール語で「周囲より高い地面」という意味の名詞。また「スレン」は形容詞としては「罪を科す」「毒を持つ」「病気の敵である」という意味となり、名詞としてはカンボジア原産の2種の木を意味する。

 

 2種の木の1つは「大きいスレン」という意味の「スレン・トム」という木であり、大きな幹や葉や果実を持つ。もう1つは「ブドウのスレン」という意味の「スレン・ブール」という木で、小さな実が成りブドウの木とほぼ同じ形をしているという。

 

 《これら2種の木は有毒で、それゆえ「トゥール・スレン」は文字通り「毒を持つ丘」、あるいは(ポル・ポト派の革命組織に対して)「罪を犯す人々を拘置する丘」という意味を持つことになる》

 

 パンフレットは「恐らくポル・ポト派がこの特定の場所を収容所に使ったのは単なる偶然だろう」としているが、収容所は偶然とするには出来すぎた暗合で満ちていた。

 

 現在、トゥール・スレンと呼ばれるポル・ポト政権の政治犯収容所「S21」は1976年5月、この地に設立された。ポル・ポト派政権の中で最も秘密に包まれた機関であり、革命に反対する「反革命分子」を見つけ出すための尋問、処刑が広範囲に行われた。

 

 長さ600メートル、幅400メートルの敷地に4つの建物が並ぶ。もともとは、リセと呼ばれたフランス流の高等学校だった。

 

 《高校の全教室は、収容所の房に転用された。窓はすべて鉄格子で閉ざされ、収容者が逃げ出せないように鉄条網が巻かれた。1階の教室は幅80センチ、奥行き2メートルの小さな独房に分割された。最上階である3階の長さ8メートル、奥行き6メートルの部屋は集団房に使われた。2階は女性収容者の房となった》

 

 《当初、尋問は収容所の周囲の建物で行われた。しかし、尋問室へ連れて行かれた女性がしばしば尋問者により強姦されたため、1978年、ドッチ所長は「ビルディングB」を尋問所に転用することにした》

 

 ドッチは中国カンボジア人で本名カン・ケク・イウ。前歴は高校の数学教師だった。高校を転用した収容所の所長が元高校教師だったことになる。さらに、収容所では10歳から15歳までの少年少女たちが働いていた。

 

 《彼らはポル・ポト政権によって護衛として訓練され、選抜された。子供たちの多くは当初こそ正常だったが、やがて急速に邪悪な存在となった。子供たちは敬意を払うべき年上の収容者をも異常に残酷に扱った》

 

 犠牲者はカンボジア全土のあらゆる階級から連れてこられた。労働者や農民、エンジニア、技術者、知識人、教授、教師、学生、さらに大臣や外交官さえ含まれていた。収容者の家族も、生まれたばかりの赤ん坊まで一蓮托生で処刑された。

 

 記録の残る収容者数は、1975年から78年6月までで1万499人。ほかに2000人の子供が収容されたと推測され、失われた記録もあることから、全体の収容者は少なくとも1万4000人と推定される。

 

 79年1月のポル・ポト政権崩壊時、生還できたのは7人とも8人ともいわれている。

 

(つづく)

 

収容所はもともと高校だった=06年1月、プノンペンのトゥール・スレン虐殺博物館
 

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2(1) 虐殺博物館

2008/12/08 16:19

 


 第2部

 

 後藤文雄神父が代表を務めるNPOが年2回、実施しているカンボジア視察ツアーは、毎回、後藤神父とNPOの会員、そして神父の「ファン」ら10人ほどが参加する。学校を建てている奥地の村を訪ねる前に、首都プノンペンを観光することが多い。観光といっても、ツアーの名前が「後藤神父と行くカンボジア研修旅行」だから、ちょっと真面目な場所も訪ねる。

 

 この日の訪問地は、ポル・ポト政権時代の政治犯収容所跡「トゥール・スレン虐殺博物館」だった。

 

 プノンペンは、メコン川とトンレサップ川という2つの大河の合流点にある。フランス植民地時代は、その美しい街並みから「東洋のパリ」とうたわれた。近年は台湾韓国中国など外国資本による開発が進み、街のあちこちに高層ビルを建てるクレーンが林立している。

 

 ツアーの一行が宿泊しているホテルを出発したマイクロバスは、しばらく走って止まり、ガイドの男性が乗り込んできた。スワット・オウ、42歳。本業は環境省職員という国家公務員で、日本語ガイドはアルバイトだった。「JICA(国際協力機構)から奨学金をいただいて、北九州市の研修施設で1年間、日本語を学びました」という。

 

 車はプノンペン南部、商店の並ぶ表通りから未舗装のでこぼこ道へ入った。すぐに学校のような建物が数棟見えてきて、入り口の前で停まった。そこが虐殺博物館だった。

 

 校庭のような広い中庭にはヤシの木が茂り、強い日差しが降り注いでいる。気温31度。じっとしていても、じっとりと汗ばんでくる。

 

 「1万4000人以上の人々がここに入れられ、拷問され、殺されました」

 

 スワットさんは淡々と話した。

 

 ポル・ポト派が政権を握った1970年代後半、ここは「S21」と呼ばれる政治犯収容所だった。「セキュリティー(公安)オフィス21号」の略称という。ポル・ポト政権崩壊の翌年に当たる1980年からは、地名を取ってトゥール・スレンと呼ばれ、虐殺博物館として一般公開されている。

 

 建物の一つに入った。白と黄色のタイルが敷き詰められた部屋の奥に、粗末な鉄製ベッドが置かれていた。ベッドの上には拘禁用の鎖が転がっており、収容者の小便用のポリタンクや大便用の鉄製の箱が置かれていた。しっくいの黄色い壁には、ベッドのそばで鎖に繋がれたまま仰向けに死んでいる男性の写真が掲げられていた。

 

 「ほとんど水だけのお粥。だから、やせて病気にも早くなりますね」

 

 スワットさんがまた静かな口調で説明した。

 

 博物館で配られた英文のパンフレットからだけでも、この場所で30年前に何があったのかがうかがい知れる。パンフレットの説明文は、こんな書き出しで始まっていた。

 

 《英語で「トゥール・スレン」という名は、ポル・ポト派政権が「反革命分子」を拘置した収容所の跡地の名として知られている。だが、クメール語で「トゥール・スレン」という語はそれ自体、過酷な意味を暗示している》


(つづく)



収容者が眠った鎖つきのベッド=06年1月、プノンペンのトゥール・スレン虐殺博物館

 

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1(30) 報復は報復しか生まない

2008/11/30 09:00

 

 

 チニー村の人々はいまや、首都プノンペンなど都市部の不在地主の小作人に転落してしまった。ラーは「これでは生きているだけでしょうね」とつぶやき、こう話し始めた。

 

 「ぼくは学校を作る前に、迷った。チニーの人々が生活できるように、どうすればいいか。ぼくは分かりませんが、でも学校があれば、みんな何とかお金を貯めて田んぼを買うかも知れません。実際にぼくの妹が住むプラウダムレイクラウ村では、オトーサンが学校を作ってから学校へ通う子供の数が増えた。1クラス分の50人から300人にです。クラスも3つに増やしました」

 

 ただ、とラーは続けた。

 

 「学校という考えだけでは、ちょっと足りません。例えば、病気の人とか、子供のいないおじいちゃん、おばあちゃんは仕事がない。どうすればいいか。貧乏な人はたくさんいます。今はできる範囲だけ、一生懸命やっていますが…」

 

 「カンボジアの農村の家族は、子供が少なくとも4人いる。政府がコンドームを配っているけど、みんな使わないで風船にする。子供のおもちゃになってしまう。貧乏で子供が多いから、ますます貧乏になる。また子供が増えます」

 

 貧困と開発。学校を建て、教師を派遣するだけでは、どうにもならない現実がそこにはある。こうしたカンボジアの農村が抱える問題が凝縮しているのが、このポル・ポト派の残党の村チニーだった。

 

 それでも、後藤神父は「報復は原理的に報復しか生まない」と言い切る。

 

 「ポル・ポトの悪業は裁かれなければならない。再び同じ過ちを犯さないためにも、その責任の所在は明らかにされねばならない。でも、ポル・ポト派の残党に対する報復として、こうした棄民政策が続けば『歯には歯を』という報復の繰り返しになる。報復された人々の子供たちが、絶対に仕返しをする。この連鎖を絶つには、彼らが人間として生きることが前提であり、それがまず容認され、保証されなければならない」

 

 チニー村で神父とラーたちが建てた学校は、ひび割れた地面の上に質素な長机が並ぶだけのトタン小屋かもしれない。しかし、それは国家による報復で粗末な家さえ奪われた人々の傍らに寄り添う、一粒の希望なのだった。

 

 それにしても、ポル・ポト政権の崩壊から30年になっても、この国の人たちは癒えない傷を、負の遺産を負っている。1975年から79年の間、自国民虐殺、餓え、病気などにより当時の人口800万人のうち170万人が死亡したと推定される、ポル・ポト政権時代プノンペンでは現在も、ポル・ポト派による大虐殺を裁く特別法廷が開かれ、すでに高齢となったポル・ポト派の元幹部たちが逮捕、起訴されて終わりの見えない裁判が続いている。

 

 ポル・ポト時代とは何だったのか。ほかならぬラーは、ポル・ポト派の元少年兵だった。

(第1部おわり)

 

チニー村の学校の窓から、子供たちと後藤神父、ラー=06年1月、バンテイミエンチェイ州
 

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1(29) 辺境の地に開発の波

2008/11/28 17:40

 

 

 学校ができて丸2年たった2004年1月のことだった。後藤神父が乾季を利用して1年ぶりにチニー村を訪れると、村人たちの家々が撤去され、小学校の建物だけがぽつんと残っていた。村人たちが土地を不法占拠していたという理由で、強制的に立ち退かされたのだった。

 

 学校も教室以外、跡形もなく更地になっていた。校舎の裏手に、以前はなかった新しい道がついていた。道の両脇に用水路を掘り、その土を使って盛り土して作った道だ。これが現在のひび割れた道だった。

 

 村人たちは当時、その新しい道のわきにブルーシートで掘っ立て小屋を作り、縮こまるようにして暮らしていたという。神父は振り返る。

 

 「村人たちは、あの灼熱の太陽の下でブルーテントに住んでいた。村人の中には、追い立てられ、村を出て行かざるを得ない人もいたのだろう。学校の子供の数が1年前の3分の1に減っていた」

 

 ポル・ポト派の残党の村であるチニーは、ポル・ポト政権が崩壊した1979年以降、この地へ住みついた人々の集落だ。

 

 神父は「ポル・ポト派といっても、いちばん下っ端の人たちで、政府も黙認してきた。なぜ今ごろになって『不法占拠だから立ち退け』というのか」。

 

 ラーが調べたところ、村の国有地はすべて私有地になっていた。政府が民間に払い下げていたのだ。

 

 危機感を募らせた神父が「既成事実を作ってしまおう。学校の周りの土地を買い取って、村人に住んでもらおう」とラーに相談すると、「政府のやっていることに盾突くことになります。様子を見てほしい」とラーは反対した。

 

 僕が後藤神父やラーとともに村を訪ねたのは06年1月のことだった。用水路のわきに作られたというブルーテントは、すでに掘っ立て小屋に代わっていた。少しはましになったということだろうか。

 

 帰り道、揺れ続けるランドクルーザーの車内で、神父はラーに尋ねた。

 

 「ねえ、ラー。この村の土地は国有地だったんでしょ? それがどうして民間のものになったの?」

 

 ラーは車の中だというのに、辺りをはばかるような口調で「聞かないほうがいいです。問題がありますから」。神父は重ねて、「ラー、なぜ政府は道路を作るの?」と訊いた。

 

 「人がだんだん増えます。人が増えると、道が必要です。だから作りました」

 

 「でも、中国人とかお金持ちの人は、道と用水路ができるまで土地を買わなかったでしょ?」

 

 「そうですね。道がついたから、買った」

 

 「政府はお金持ちに売るために道を作った…」

 

 「政府は道を作ると選挙に勝てるから、道を作ります」

 

 「ハッハッハ」

 

 神父は、ついにぽんぽこ腹を揺すって笑い出した。

 

 「政府は選挙のために道を作り、お金持ちはその道ができるのを待って土地を買う。思惑が一致したわけだ」

 

 政府が道路を作り、道路によって利用価値のできた土地を資本家へ売り、村人に借りさせ、米を作らせるという構図。後藤神父には、それが一枚の戯画のように見えたのだった。

 

(つづく)

 


チニー村の子供たち=06年1月、バンテイミエンチェイ州
 

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1(28) 追い出された村人

2008/11/27 11:09

 

 

 なるほど、ささやかな小屋だった。チニー村の小学校は、村の入り口に近い一本道のわきにあった。一本道と学校の間に小さな用水路があり、渡してある板の上をバランスを取りながら進むと、数十メートル先に平屋のトタン屋根が強い日差しに輝いていた。

 

 後藤神父の姿を見て、子供たちが集まってきた。薄暗い教室に足を踏み入れると、床は土の地面のまま、乾いた泥土がひび割れているのが目に入った。壁の板に学習用の文字が書かれた破れかけのポスターが張ってあるほかは、殺風景な教室だ。子供たちはふだんの勉強の様子を見せようとしているのだろうか、長机に腰かけて背筋をぴんと伸ばした。

 

 この教室で、1年生から3年生までの3学年が朝、午後、夕方に分かれて授業を受けている。4年生以上は教室や先生の限界から教えられない。神父が校長のチェンに「今、いちばんの問題は何?」と尋ねると、「子供が多くて教室が足りない。机も直してほしいし、学校の前の用水路に橋を作ってほしい」と答えた。

 

 神父は通訳のラーのほうを向いて尋ねた。

 

 「教室をもう一つ増やすための土地は工面できるの?」

 

 「州政府が、学校のためにすでに用地を提供してくれています」

 

 ラーは、長さ138メートル、幅140メートルのほぼ正方形の土地が準備されていることを説明した。

 

 学校の背後には、見渡す限りの田畑が広がっていた。神父はふと思いついたようにラーに尋ねた。

 

 「田んぼの土地を持っているのは誰なの」

 

 ラーは口ごもりながら答えた。

 

 「中国人とか金持ちが買って、村の人に貸しています」

 

 ラーの説明によれば、チニー村の田んぼの持ち主は、首都プノンペンなど都市部にいる富裕なカンボジア人だという。カンボジア人といっても、この国で経済的な影響力を持っているのは、第一に中国系、いわゆる華僑だ。

 

 周囲の土地の相場は、1ヘクタール当たり1500~2000ドル(15万~20万円)。ラーは集まった村人たちを見守りながら、「この人たちには買えません。みんな田んぼを借りてお米を作っています。ここのお米はすごくおいしい。自然ですから」と言った。

 

 チニー村のさらに北にある隣村は、バーラン・チュライー(新しい村)という名前だった。ラーによれば、村の周辺にはかつて、密林が広がっていたという。

 

 ラーは「ぼくが初めて入った10年前は、ぜんぶ森でした。野生のトラがいて、トラを捕まえて皮を取ってタイへ売った。トラはいなくなりました。森はみんな田んぼになった」。

 

 数年前には、チニー村の人々が強制立ち退きを受ける事件も起きていた。

(つづく)

 


チニー村の小学校の教室。泥土の床はひび割れていた=06年1月、バンテイミエンチェイ州
 

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1(27) 学校ができた

2008/11/25 16:19

 

 

 後藤神父に問われ、チニー村のリーダー格の男はこう答えたという。


「子供たちに読み書きを教えてくれる教師を一人、送ってほしい」

 

 《読み書き無用を主張してきたポル・ポト派の人たちだったのに、その彼らが今、わたしに教師の派遣を依頼しているのである。意外だった。知識人を目の敵にして、医師、教師、官吏、学生など高等教育を受けた人をすべて虐殺した彼らである。その彼らが教育の必要性に気づいたのだ》(『ともに生きる世界』)

 

 しかし、その時点で旧ポル・ポト派は反政府ゲリラのような存在だった。神父はラーに意見を求めた。ラーは「利敵行為として政府から非難されるかもしれない。賢明に動くべきです」と答えた。

 

 リーダー格の男は「われわれはいずれ立ち退きを迫られるかもしれない。心配だ」と不安を口にした。神父は「既成事実を作ってしまおう」と考え、ラーに頼んでさっそく、教室が一つだけの小さな小屋を建てた。村を初めて訪ねた翌年、2002年1月のことだった。

 

 神父は次に、ラーの妹宅があるプラウダムレイクラウ村に建てた小学校の校長に「チニー村へ行って教えてくれる先生はいないか」と相談した。

 

 「私が行きます」

 

 手を挙げたのは、チェン・ニェム(36)だった。プラウダムレイク村で生まれ育ち、村で農業を営む3児の父。神父は政府から支給される給料だけでは気の毒に思い、ラーを通じて資金を援助した。

 

 チェンは乾季は自宅からチニー村へ通い、雨季には道路が寸断されるため、教室のそばの農作業小屋に寝泊まりして子供を教えている。科目は国語のクマエ語、計算、地理など。

 

 「私はこの国の将来を担うすべての子供たちが好きなのです。だから、大変な仕事だなんて思いません」

 

 こう言って笑顔を見せるチェンは、授業の合間にチニー村の田んぼで米作りにも励むという。

 

 当初は、7歳から18歳までの子供40人でのスタートだった。現在は6歳から17歳までの120人が学び、先生も3人に増えた。村の人口が増えたためで、ラーは「オトーサンが学校を作ってから、だいぶ家が増えました」と話す。

 

 神父は言う。

 

 「子供は誰でも初等教育を受ける権利がある。それは国連の児童の権利条約で『初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする』とうたわれている。ポル・ポト派の残党の子供であっても、その例外ではない」

 

(つづく)

 


チニー村の小学校。右奥の木立では、後藤神父が立ち小便=06年1月、バンテイミエンチェイ州
 

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1(26) 野ねずみの姿焼き

2008/11/24 18:43

 

 

 村といっても、南北にのびる泥土の一本道の両脇に、バラックと呼ぶには粗末すぎる小屋が並ぶだけの集落だった。

 

 辺りの雰囲気に不似合いなランドクルーザーの車列が止まると、小屋の軒の低い高床の下から這い出るようにして、20人ほどの村人たちが集まってきた。腰巻きだけの子供やふるちんの子供もいる。

 

 この村を初めて訪れた時のことを、後藤神父は著書『ともに生きる世界』で次のようにつづっている。

 

 《チニー村に着いたらすぐ、子どもたちがわたしたちを取り囲んだ。ボロをまとった女の子、裸の男の子と今まで見てきたカンボジアの子どもたちとは一見しても違う厳しい顔つきをしている。大人たちも集まってきた。(プラウダムレイクラウ村の)村長さんが、訪問の理由を向こう側のリーダーに告げた。リーダー格の男のするどい視線がチラッチラッとわたしにそそがれる。わたしの品定めをしているにちがいない》

 

 村長の説明を聞いて安心したらしいリーダー格の男は、神父を集落の中へ案内した。神父の目には、村人たちが何の所作もなく、日がな一日、無為に暮らしているように見えたという。原野の真ん中に住みつき、小屋を建て、周りに畑を作り、米も少しは作ったというが、自分たちの土地ではないためいつ政府に追い立てられるかもしれない。

 

 《「これが井戸だ」。指さしたところは、直径二メートルほどの泥池であって、女の子がその泥水をポリバケツでくんでいった。澄ませてから飲むのだそうだ。乾季に入っているのでこの池もまもなく底をつくらしい。その後は、片道二時間をかけてはるか遠くの川まで水をくみに行かなければならないのだという》

 

 神父たちは村の女性から食事を振るわれた。たき火で焼いた何かの姿焼きのようで、尋ねたら野ねずみだった。これが村人たちのたんぱく源なのだった。

 

 《ポル・ポト支配時代には、横柄にふるまった連中にちがいなかったであろうが、今は追われる身で、明日の保証もない。「政府はわれわれが消滅するのを待っているのだ。あとはどこへ身を寄せたらいいのか」。黒く日焼けしたリーダーの男は、その日暮らしの不安を訴えた》

 

 「私に何かお手伝いができますか」

 

 後藤神父は思わず、そう問いかけていた。

(つづく)

チニー村の家並み=06年1月、バンテイミエンチェイ州
 

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1(25) ポル・ポト残党の村

2008/10/20 03:44

 

 

 カンボジア奥地のでこぼこ道には慣れてきたはずだったが、その道は生半可ではなかった。後藤神父の滞在先、ラーの妹宅のあるプラウダムレイクラウ村から、さらに奥地にあるポル・ポト派の残党の村へと向かう、ひび割れた道。


「よっこらしょいの、どっこいしょ」

 

 時速わずか15キロ。のろのろ運転のトヨタ・ランドクルーザーの後部席で、揺れるに身を任せた後藤神父は愉快そうに節をつけて言った。フライパンで炒られる豆のように、ゆっさゆっさ揺れる。


「僕は車が揺れれば揺れるほど楽しくなる」


窓外に目をやれば、見渡す限りの乾いた草原だった。遙か遠くに低い緑の木々が点在する。英BBC放送出身のジャーナリスト、フィリップ・ショートが指摘するように、カンボジアの風景はアジアよりむしろアフリカのそれに近い。


道路わきの農業用の池でツルが14、5羽、羽を休めていた。ラーがつぶやいた。

 

 「ツルがいたら平和の証拠。タイから移ってくる。だから、タイが少し心配」

 

 後藤神父が、このでこぼこ道を初めて通ったのは2001年1月のことだった。

 

 「ポル・ポト派の残党の村へ行きませんか」

 

 プラウダムレイクラウ村に滞在中、村長からこう誘われた。チニーという名の村だった。


当時は1998年4月のポル・ポトの死亡からまだ3年が経過しないころだった。チニー村は、ポル・ポトが軟禁されていた
タイ国境の密林地帯とは離れた場所にあったが、同様に国境地帯のジャングルであり、97年までポル・ポト派の支配地域だった。日本の民間人がのこのこと出かけて行ける雰囲気ではなかった。


後藤神父は「最初はびっくりして、迷った。恐怖心がまったくないわけではなかった」と振り返る。けれど、ラーはこう言って請け合った。


「チニーの人々は私たちの村まで塩を買いに来ている。プラウダムレイクラウの村人は、塩を分けてあげることでチニーの人々を助けている。だから大丈夫でしょう」


ラーの妹宅に住む21歳と18歳のめいも一緒に来てくれることになった。神父は「お嬢さん2人がいるということは、ポル・ポト派の残党から見て問題をふっかけにきたのでないことはすぐに分かるだろう」と思い、出かけることにした。それでも州兵4人が護衛についた。


そんな覚悟を決めて初めて村に足を踏み入れてから、神父は毎年1月、乾季を選んで訪問を続けている。初訪問の翌年に建てた学校では多くの子供たちが学んでいる。だからこそ神父はポル・ポト派の残党の村への訪問を「楽しい」と言えるまでになったのだろう。


でこぼこの一本道をゆっくりと走って45分ほど経ったころ、ラーが淡々と告げた。


「これからチニー村に入ります」


小さな運河沿いに、粗末な小屋が並ぶのが見えてきた。


(つづく)


アフリカのようなカンボジアの農村風景=06年1月、バンテイミエンチェイ州

 

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